1993年4月。

念願の音大生活が始まりました。

 

当時、武蔵野音楽大学は1、2年生は入間校舎、3年生から院生までは練馬区の江古田校舎でした。

 

1、2年は音楽の専門科目とともに一般教養を学びました。

学生時代は、ピアノしか弾いていない、ピアノ以外は学校で座学を受けているだけ、という生活でした。

武蔵野音大は華やかなイメージですが、それは本当に一部で、頑張り屋さんの集まりでした!

 

1年の時の試験は

夏には バッハの平均律

冬には ベートーヴェンのソナタ『告別』を演奏しました。

 

 

 

2年になると、前期試験では、グループコンサートといって、門下ごとのグループに分かれてコンサート形式の試験が行われます。

衣装は白ブラウスに黒のロングスカートと決まっていました。

当日は朝早く起きて、お風呂に入り気合を入れて向かったのを覚えています。

 

演奏に選んだのはリストのバラード第2番。

見事学内選抜に選ばれ、特別コンサートにも出場させていただくことになりました。

その頃のピアノ科は500人近くいて、選抜されたのは18名でした。

長い努力が一つ報われた気がして、小さなことですがとても幸せでした。

後期の試験は、リストのポロネーズを演奏しました。

成績はS、A、B、C(D以下は不合格)でつけられますが、この後、大学院を修了するまでS(全体の数名だそうです)をとり続けました。

 

3年からは、師事している先生の他に、外国人の客員教授にもつかせていただくことになりました。

3年のグループコンサートでは、リストの《葬送》を演奏します。直前までベートーヴェンのピアノコンチェルト第5番の舞台があったので、あまり考える時間もなくて、「えい、や!」という気分で選びます。

 

こちらも学内選抜に選ばれましたが、このころから、練習のしすぎで手に負担がかかり、手首にガングリオンができ、激痛に苦しみます。。

学内選抜コンサート前も、1週間はピアノを弾かずに様子を見ていました。

 

当日の夕方まで出演は見送る方向でしたが、でも、どうしても弾きたくて、「演奏時間の9分だけ、何が何でも持ちこたえよう」と賭けをして出演します。

結果的には、止まることなく弾き終わりましたが、ここから・・10年以上、手首の故障と背合わせの不安な日々が始まります。

 

痛くなったら休む、水が溜まったら抜く、を繰り返しながら、後期試験はラフマニノフのソナタ第2番を弾きました。

このころから、夜も眠れないほどの激痛との戦いでした。

 

4年では、9月の前期試験にショパンエチュード2曲、10月に大学院の筆記試験、11月は大学院の実技試験、12月に卒業試験(リストの『ダンテを読んで』でした)、1月に卒業演奏会選抜試験、3月卒業演奏会、というスケジュールでした。

 

 


 

1995年に大学院へ入学します。

1年の時は、ベートーヴェンのヘ長調の変奏曲と、ショパンのソナタ第3番を、

2年の時は、大学院修了試験ではシューベルトの即興曲とリストのソナタロ短調を演奏しました。

 

2年の時に、ロシアの先生へ変わったのですが、相性が悪かったのもあって、レッスンが苦痛になります。

 

実はここで、私は初めて「ピアノをやめたい」と思うようにもなりました。

 

大学院を修了してから、仕事としてピアノレッスンはしていましたが、自分のためには一切ピアノを弾かなくなった時期もあります。

 

 


大学院を修了して2年が経った頃でしょうか。

少しずつトラウマが薄れ始め、

音大時代の声楽の先生とのご縁があり、伴奏の仕事をいただくようになりました。

こうしてゆっくりと、またピアノの世界に戻ってきます。

 

無理をせず好きな曲を、好きな時に弾く、というリハビリをしながら、コンクールも目指せるようになりました。

 

いくつか賞をいただいてからは、達成感とともに自信が戻ってきました。

 

「でも、今からはもっと繊細な世界・・・バロックや古典を勉強したい。」という思いがわき、

 

「よし、それなら、初心に戻って一から勉強し直すつもりで、楽器も場所も変えよう!」

「楽器が変わっても、最終的にピアノが上手くなるのなら、何だって勉強する!!」

 「ピアノが発明された国、イタリアへ行けば、何かヒントがある気がする!!」

 

そう思って、2002年、トランク一つを抱えて、ミラノへ行きます。

 

そこからのプロフィールはこちらです。

 

イタリアから帰国後は東京大学で勉強していたこともありました。

これもすべて 「ピアノ=音楽」 のため、

「ピアノが好き」という気持ちが私を動かしていました。

 

 


こうして振り返ると、いろいろなところで、多くの方達に手を差し伸べられながら過ごしてきたのだなぁ、と

改めて、 感謝の気持ちでいっぱいになります。

 

そして今、子どもの頃から夢だった「ピアノの先生」ができることを心から幸せに思っています。

 

 

極めることは、楽しいだけではできません。

私も何度、隠れて泣いたかわかりません。

 

 

だかこそ、私の生徒さんには、「プロになることだけがピアノを弾くことではない」ということ、

そして、「ピアノが弾ける」純粋な喜びを味わってほしいと思っています。

 

でもこの喜びは、ピアノをただ鳴らすだけでは味わえません。

 

 

私の第二の故郷イタリアでは、幼いうちから音楽院で授業が受けられ、

どんなに小さな子どもでも、第一線で活躍する教授から、音楽の手ほどきを一から学べました。

 

 

 

私も、舞台に立つ一音楽家として、

イタリアの音楽院のように、

地域の子どもたちに、

ヨーロッパの伝統を引き継ぐ「本物の」「正しい」音楽の姿を伝えていきたいと思っています。

 

 

2017年8月21日 水野直子